‘感動の声’ カテゴリーのアーカイブ

いけるか入賞!

2015年3月18日 水曜日
Share on Facebook

2011年から今年で5回目の出場となった『美作市F1ロードマラソン大会in岡山国際サーキット』。サーキット場は滅多に入れるところではないので、秋元さんにとって年に一度の楽しみなイベントなのだ。

「きれいに舗装されたコースなので、とても走りやすいです。だからといってラクなレースだと思ったら大間違いなんですけどね」

 

 直線は平坦な道のり。しかしカーブになると傾斜。本物のサーキット場というのは思いの外、アップダウンが激しいのだ。しかも、マラソンコースはサーキット場を飛び出して、一般道も使用する。岡山国際サーキットは山の上にあるため、一度途中まで降りて、折り返し地点を通過したのち、また山へ上がって行かなくてはならない。

「私はいつも10kmの部に出場しているのですが、10kmでさえペース配分を間違えると歩くことになってしまうんです」

 秋元さんは毎回、自己ベストを狙っている。昨年は40分ちょっとだったので、今年は39分台を目標にしていた。

 

 スタートラインに立つ際、実力者は前へ行くことが暗黙の了解。秋元さんは今回、なんと自ら最前列に並んだ。しかも、まわりからの割り込み等はほとんどなかった。紛れもなく実力を認められた証拠だった。

「タイムからいって優勝なんておこがましい。だけど入賞ならいけるんじゃないか」

 そんな思いが頭の中をグルグル回った。

 

 

レースの火ぶたが切って落とされた。ハイペースで走ったつもりはないのに、秋元さんが先頭に立った。

「どういうことだと思いましたね。なぜ誰も行かないんだと。でも、前に誰もいない状況って、とても走りやすいと思いました」

 前の選手との接触を気にしなくてもいい。しかし、その安堵感は微かなものでしかなかった。背後からの見えないプレッシャー。こちらのほうが支配的だった。

「圧倒的に速い人が何名かいるので、いつ動くんだろう、いつ追い抜くのだろうと、気持ちの悪さがありました」

 そして1km手前で、本来の優勝候補たちが秋元さんを抜き去った。

「やっぱりという感じです。ようやく、本当の意味でのレースが始まったと思いました」

 

優勝は無理でも6位までには入りたい。前半は調子よく走ることができた。だが、8位で折り返すも、そこからの登りでペースが落ちてしまう。6位までが入賞なので、これではいけないのだ。

 ところがペースが上がらない。登り坂が苦しい。追いかけても追いかけても遠のく7位との距離。

 

 結局、秋元さんは8位でゴールテープを切った。前の選手とは1分以上離されてしまった。それどころか、9位の選手にかなり詰め寄られていた。その差は25秒。

順位は不満だった。それでもタイムには満足した。38分35秒。目標だった39分台を遙かにしのぐ記録が出たのだ。

「年齢を重ねても自己ベストを出せるのがマラソンの魅力なんですよね。自分はまだまだ伸びるような気がします!」

 

来年はもっといい順位を目指す…のかと思えば、ハーフマラソンの部へ変更することも視野に入れているという。10kmかハーフか。どちらを選択するにせよ、今以上の走りを目指すことだけは変わらない。

 秋元さんのさらなる成長を期待したい!

 

(文責:ライター金子塾 滝沢)

 

 

ペダルを踏ませた東北魂

2015年3月11日 水曜日
Share on Facebook

人生の中で経験したことのない達成感とはどんなものだろう。
「第3回 ツール・ド・三陸 サイクリング チャレンジ 2014 in りくぜんたかた・おおふなと」に参加した林田 良平さんは、そんな達成感につつまれる。
「自分の目標を達成したというより、地元の方たちの声援に応えることができた感謝の気持ちからです。」
ここ三陸は2011年、東日本大震災で津波による大きな被害を受けた場所。
 
声援を送っていたのは、その地域の大勢の人たち。

「三陸の被災者の皆さんは、震災後、想像もできないほどのきびしい生活を送っていらっしゃるはず。それを感じさせないほど明るく大きな声援を送ってくださいました。」
車椅子から一生懸命フラッグを振っている人。杖で体を支えながら応援している人。林田さんはその観客の中に沿道で杖を使っていた、ある女性とハイタッチをした。
その手が重なるほんの一瞬の間に、その女性から今を力強く生きている「東北魂」を感じとった。
 
 
スタートを切ってしばらくすると、林田さんの視界に、白い1棟のマンションがあった。
「一見、大きな損傷が無いように見えたので、震災後に新しく建てられたのかと思いました。」しかし、よく見ると、窓や扉が変形していた。
林田さんの脳裏に思い浮かんだのは、平穏で美しい海が地震により、そこに住む人の住まいや建造物に想定外の変化をひき起こした光景だった。
その後、林田さんはたくさんの花束が手向けられているのを目にする。被災者の方たちはきっと、全力で逃げたのだろうと想像された。
「そう思った直後に、人の命をうばい去った津波に怒りが込みあげてきて、よりいっそうペダルに力が入りました。」
 
このツール・ド・三陸開催の記事を新聞で見つけ、すぐに大会参加申し込みをした林田さん。
「考えるよりも先に申し込みをしていました。」
2011年に林田さんは、震災から2カ月後の宮城県宮城野区で災害ボランティアに参加していた。また、大学の自転車部で部活動もしていた。当時のその2つの経験が、今回の大会申し込みへリンクした。
自転車を始めて5年後、初めて出た大会がこのツール・ド・三陸だった。
「もし50Kmを自分1人で走っていれば、難所ポイントのリアス式海岸はアップダウンの激しい区間で、ロードバイクを押して坂を登っただろうし、途中で走るのをやめる事もできました。」
困難な状況の中でも強く生きる三陸の方からの声援があったからこそ、「負けるものか」という気持ちでいくつもの急な坂道を制覇できたのだろうと林田さんは感じている。
そして、一度も自転車を降りること無く完走することができた。
 
林田さんは、考える。「この大会の参加者が「勇姿」として、三陸の皆さんへ元気と生きる喜びや楽しみを届けられたら。」
今、国内はもとより、世界各国の人たちが、来日し復興支援活動をしていることに、林田さんは刺激を受けている。そして、これから自分自身、どのように協力できるか思いをめぐらせている。
 
林田さんの地元である埼玉県では、2013年からツール・ド・フランスさいたまクリテリウムが開催されるようになった。美しい自然や食文化が数多く存在する東北でも是非ツール・ド・フランスの名が冠した大会が開催され、海外の人たちにも被災地の活性化に協力してもらえたらと、林田さんは切望している。
林田さんは、次回もツール・ド・三陸に参加したいと考えている。
「今年よりも更に復興が進んでいることを心から願っております。またツール・ド・三陸でお会いしましょう!そして、応援をよろしくお願いします。」
 
(文責:石渡 素子)
 

特別な地で子どもと参加できたことに感謝

2015年3月4日 水曜日
Share on Facebook

今回は、お客様からいただいたエピソードをご紹介。

O.Mさんは息子さんと一緒に、ご自身にとって特別な地沖縄で開催された、

自転車レース美ら島オキナワCenturyRun2015」に参加しました。

 

今回写真を撮影していただきとても感謝いたします。

山口県から初めてこのようなイベントに参加をいたしました。

普段は子供と走っても後ろからしか写真を撮る機会が無いのですがゴールの瞬間が残せたことはとても思い出になりました。

 

 

私の子供は障害がありスポーツをするにあたりルールの理解が難しいためなかなか参加ができませんでした。

ですが自転車のサイクリングでしたらスタートからゴールに向かって走るとわかりやすいため今回参加させていただきました。

沢山の方にこの写真を見せることができとても嬉しく思います。

また沖縄は私の大叔父が戦死をされて平和祈念公園の石碑に名前が刻まれており、

子供と訪れたいと思っておりましたので沖縄は特別な地であります。

またその地でのイベントと言うこともあり私は子供と参加できたことがとても嬉しく思います。

沖縄の地で大叔父の血縁が生きている、障害があっても頑張っている。こんな姿が見せれたような気がしております。

またその瞬間を残せたことはとても嬉しく思います。

 

他のイベントでまた同じように写真を撮られる機会があればぜひとも購入させてください。

ありがとうございました。

 

(O.Mさんのエピソードより)

「亡き弟」思い、表彰台に

2015年2月25日 水曜日
Share on Facebook

ある特別なネックレスを身につけて、坂本一美さんは『小江戸川越ハーフマラソン2014』のスタート地点にいた。

10kmの部にエントリーした坂本さん。この大会スタート時刻の早朝はいつも寒い。

 

この大会に以前から出場し、状況を知っている坂本さんは、いつもどおり厚着をしていた。

 
ところが今回の大会に限って、予想外に日差しが強く暑かった。

「ハイネックを着ていたので、暑くて苦しくて苦しくて。」

 

スタートを切った坂本さんは、暑さと苦しさの中、いつものやり方で息を整えた。

「ゆま、りま、るま」とつぶやく。この名前は、坂本さんの可愛い孫3人の名前。

レース中に息が上がってきた時、何かいい方法が無いかと考え、大会本番最中にふと思いついた方法だ。

そして今回の大会では、もう一人の名前が増えた。

「おさむ」

坂本さんの弟の名前だ。

 

この大会からちょうど1年前の秋、坂本さんの弟が、49才の若さで急に亡くなる。弟の子どもは両親を失った。

弟の妻も2007年にこの世を去っていた。
「弟はとても優しい人でした。私の兄のような存在。」
駐車場で突然倒れた坂本さんの弟は、亡くなった妻をとても大事にしていた。
「最後に弟に会った夏は、弟の息子に子どもが産まれて、孫を抱けて良かったと喜んでいたんです。」
突然の悲しい出来事に、坂本さんはショックを隠せなかった。
 
弟の葬式の当日、遺影にネックレスを見つけた坂本さん。そのネックレスを形見に欲しいと子どもたちにお願いし、受け取った。
 
坂本さんが、小江戸ハーフマラソンの大会当日、胸につけていたネックレスとは、その弟の形見だったのだ。
ちょうど、弟の急死から1周忌をむかえた時期の大会だ。
 
「普段は、このネックレスは手元に持っていますが、身にはつけていません。レースの時になると、このネックレスを身につけるんです。弟に見守っていてほしいという思いで。」
 
 
坂本さんがマラソンを始めたのは、2008年1月。
「最初は、ジムのランニングマシンで5kmも走れなかったんです。」

自身、出産を機に、ふくらはぎの静脈瘤に不調が出たため手術をし、丈夫な体を作りたいとジムに通い始めた。
 
通っていたジムの仲間にも走ることを誘われていた。24時間テレビで、タレントのエド・はるみさんが走っているのを見て、「私にも出来るのではないか」と感じた。
走ったことがないけど、走る決心がついた。
 
ジムのランニングマシンで走っていた坂本さんに、「外で走ればもっと走れるよ」、と仲間たちが声をかけた。
 
そのアドバイスを受け、坂本さんの走行距離はだんだんと伸びてきた。
 
2008年10月、初めて出たレース5kmの部で26分でゴールすることができ、76人中10位につけた。その後、奥秩父三峰山マラソン大会で同距離を2位、タイムは19分に縮めることができた。
そして、表彰台に登ることが多くなってきたのだ。
 
「大会では、常に表彰台に登りたいと思うようになったんです。」 
 
 
2010年、坂本さんはジムの仲間と共に第1回となる小江戸川越ハーフマラソンに出場する。6位入賞を果たしたこの当時、ハーフでは1時間50分を切れるレベルになっていた。
 
「走るようになってからは、体調も良いですし風邪もひきません。」
 
一人ではきっと走れなかったことも、仲間となら頑張れる。大会に出ることが自分へのいいプレッシャーにもなり、生活のスパイスにもなっている。
 
今回の2014年の大会は、暑さとの戦いのレースとなったが、「沿道の人の声援で頑張ることができました。」
そして、弟を心の中で思いながらゴールを切った。
前年の8位を上回ることはできなかったが、10位入賞を果たした。

今まで、10kmの距離にこだわって練習し、大会に参戦してきた坂本さんだが、仲間の勧めもあり、今年3月の板橋マラソンでは、初めてのフルに挑戦する予定だ。

そうなると、シューズや練習にも新たな調整が必要だ。「未知の世界なので、どうなるのか、今から楽しみです。」

初めて挑戦するフルも、もちろん弟のネックレスを身につける。

苦しい時に心の中で支えてもらい、これからも、坂本さんは弟を胸に思いながら、表彰台に登りつづけるだろう。

 

(文責:石渡 素子)

 

弱音は許さない!

2015年2月18日 水曜日
Share on Facebook

名護市を中心とした沖縄県北部で毎年行われる『ツール・ド・おきなわ』。二日間計19レースが実施されるという、この地域きっての巨大イベントだ。
神田佳代さんと拓飛(たくと)くん親子は、『恩納村ファミリーサイクリング 70km』の部に参加した。
 「参加するきっかけは、息子が10歳を迎えたことでした。1/2成人式ということで、記念に何かをしようということになったんです」
 その何かが70kmのサイクリングだなんて…。

「家から古宇利島まで11kmあるんですが、息子はそこまで自転車で行ったことがあるんです。そして1周6kmの島をグルッと回って帰ってきました。そういう経験があったし、私もいっしょに参加するからということで、エントリーをしました」
 
 神田さんはエアロビクスをしており、ロッククライミングの経験もあるスポーツウーマン。拓飛くんは運動好きの水泳をこよなく愛するスイマー。だが、拓飛くんは弱音を口にしやすい子なのだという。この“気質”を気にしていた母は、これを機に少しでも改善したいという気持ちが強かった。
そしてこれこそが『恩納村ファミリーサイクリング 70km』の部に参加した裏テーマでもあったのだ。
 
 拓飛くんの弱音は登り坂で起きた。平地のようにスイスイ進むことができず、力を込めて自転車をこぎ続けなくてはならない場所だ。
「登り坂になると、拓飛は『降りたい』と言うんですよね。私は後ろからついていき『降りていいのは休憩所だけ』と返事をします。すると今度は『しんどい』と。すぐさま『お母さんもだよ』と言い返します。また、拓飛よりも小さい子も参加していたので、『あの子も頑張っているよ』と言って、『じゃあ、頑張る』と。そんなやり取りをしながら、登り坂を進んでいきましたね」
 
 拓飛くんは決して体力のない子どもではない。むしろあるほうだ。その証拠に休憩所に入ると、母はマッサージやストレッチで体力回復に努めるのに、疲労した様子もなく爽やかにチョコやジュースを口にするのだから。
 
 後半に入ると、まさかの展開に…。なんと神田さんが遅れだす。
「後半は拓飛のほうが速かったです。私は登り坂で追いつき、平地で引き離される感じでした。拓飛が『待っていようか』と声をかけるのですが、『止まってしまうからダメ』と言いました。我慢して進んでいけば、いつかは自分が優位になる時が来るから、あきらめずに進み続けなさい。何事のあきらめないことが大事と息子に言い聞かせたと思います」
 
 最後は母が踏ん張ってペースを上げ、二人で併走しながらゴールした。
「『できたね』と言ったら、『やっと終わったよ』と答えていましたね」
『恩納村ファミリーサイクリング 70km』に参加した子どもは、近所では拓飛くんだけだった。しかも完走したことで、翌日からしばらくはいろんな大人たちから「偉いね」「凄いね」とたくさん声をかけられた。さらに、拓飛くんの友達のお兄ちゃんは「小学生の拓飛が70kmを完走したのなら、中学生の僕は来年100kmに出る」と刺激を受けたという。
 
 神田さん曰く、10歳の節目は拓飛くんのチャレンジの年と定めている。今回以外も、神田さんの実家がある大阪へ行ったときは登山にも出掛けた。
ダメだと諦めず、挑戦する人間になってほしい。乗り越えれば達成感を得られるし、まわりからも評価される。母の切なる思いはスポーツを通して伝えられている。
10年後、本当の成人式を迎えたときはどんな大人に成長しているのか。今から楽しみである。
 
(文責:ライター金子塾 滝沢)
 

走ることで生まれる自分の特別な時間

2015年2月11日 水曜日
Share on Facebook

昨年、1月30日熊野古道トレイルランレース(50km)を完走し、2月に丸亀ハーフマラソンを1時間30分でゴール、4月はとくしまマラソンを3時間30分で走った佐藤裕子さん。

今年からはトレイルランにはまっていて、毎週土曜日に藤井寺〜焼山寺往復、日曜日はパーソナルトレーニング、平日は思いつきで片道6kmの通勤ラン、深夜10kmランなど月200kmを目標に練習してきた。

現在、看護師をしている佐藤さんが走るきっかけとなったのは、20081225日の時のこと。

佐藤さんは子どもたちと過ごすことが好き。けれど、日頃の仕事が忙しく、子どもたちと一緒に過ごす時間を作ることが難しかった。

 

病棟勤務の時は、夜勤の入りと明けも走っていた佐藤さんは、なんとか子どもたちとかかわる時間を持ちたいと思い、子どもたちと「夜のお散歩」に出かける。

 「雪の日でも、子どもたちの小さな手をにぎり自分のコートのポケットに入れて歩きました。なぞなぞや、しりとりで盛り上がるのに飽きた頃、誰かが、ちょっと走ってみる?って言い出したのが始まりです。子どもをおんぶして走ることもありました。」

そして、子どもたちと過ごす時間と共に、走る時間も増えてきた。

 

「走り始めてから、色々なことに負けそうな自分から、少しずつ進化することができました。走るきっかけをくれた子どもたちには感謝しています。」

佐藤さんにとって、走っている時は特別な時間。気持ちが充実し、自分が一番輝ける。色々なことを考える。自分をリセットすることができたり、走った後の達成感を得られることが好き。

 

そんな中、佐藤さんは、右股関節炎症のため水がたまり2ヶ月間、ランニングの練習を休んでいた。

記録が難しいなら、せめて記憶に残るレースにしようと、インターネットで見つけたこの着ぐるみを着て職場の仲間と『阿波吉野川マラソン大会2014』に出場した。

「走るのが初めての人を含めて、みんなで走る機会を増やそう」と、職場のチームワーク向上のためにも、今大会に出場した。自分のタイムより、仲間を思いながら走ろうと思った。

「応援しながら走るって楽しい〜」と。

 

佐藤さんは、ハーフ初出場の女性スタッフたちやナスの着ぐるみを着た男性スタッフたちと、スタートを切った。

走行中は女性スタッフの体調ばかり気にしていたが、ナスの気ぐるみを着ていた男性スタッフの一人が熱中症寸前に。 

佐藤さんはその男性を応援しながら併走した。そして、男性スタッフと佐藤さんは2時間43分53秒で無事にゴール。

「最後は熱中症寸前のナスちゃんの手をとって万歳のポーズでゴールしました。」

結果的にはチーム全員完走できたことが、佐藤さんは何よりも嬉しかった。

 

佐藤さんは、60歳までにウルトラトレイル・マウントフジや、そのショートバージョンのSTY=静岡から山梨(英名=SHIZUOKA To YAMANASHI))に出場して完走するという夢を持っている。

また、絵本が大好きな佐藤さんは、以前、子どもたちに読み聞かせをすることもあった。

「走れなくなったら、また子どもたちに読み聞かせをしていきたいです。」

走ることで人生をより充実させている佐藤さんは、走るきっかけをくれた子どもたちと共に過ごすことにも、さらなる夢を抱いている。

(文責:石渡 素子)

お互いを思いあえる兄妹っていいもんだな

2015年2月4日 水曜日
Share on Facebook

今回は、お客様からいただいたエピソードをご紹介。

第33回 川西一庫ダム周遊マラソン大会に出場する妹のために、兄は練習につきあいますが・・・・。

その様子を見ていたお母さんのお話です。

 

 

今回初めて参加しました。娘は叔父(私の弟)と走りました。

娘は今、2年生で、空手をしています。そのための体力づくりに本人は「走りたい。」と言ってきました。
私は、正直びっくりしました。普段はしんどいことは避けていくタイプなのでいきなり2キロ走るのは無理なので、毎日ランニングをすることにしました。
そのとき、6年生のお兄ちゃんも一緒に走りました。お兄ちゃんはバスケットをしていて、一庫マラソンの日は練習があって出場できないので、練習だけつき合ってくれていました。
 
ところが、娘が参加申込みをしてから1週間後、お兄ちゃんはバスケットで骨折し入院、手術をすることに…。結果、お兄ちゃんは約半年走るのは難しいとお医者さんに言われました。大好きなバスケットももう、小学生のうちは出来ません。お兄ちゃんは毎日痛みと動けないもどかしさと闘っていました。
そんなお兄ちゃんを見て娘は「お兄ちゃんのために1位になる!」と。でも、母も毎日病院と家の往復でなかなか練習できず…。本番直前、学校の先生が朝、授業が始まる前に一緒に練習してくれました。
 
そして本番、気合いが入りすぎたのか、スタートと共にダッシュ。弟はこれなら一位をねらえるッと思ったようです…が、のぼり坂手前で失速。結果は・・・・。
 
でも、最後まで歩かず走りきったということでお兄ちゃんは妹をすごくほめていました。そして、早く自分も走れるようになりたい!と。
今はまだ松葉杖で、リハビリもなかなか進まず。でも、本人は、「卒業前のバスケットの試合に出る!」と、妹と約束していました。「お互いを思いあえる兄妹っていいもんだな」と感じました。
 
(K.Yさんのエピソードより)
 

見違えるほどの成長に驚き!

2015年1月28日 水曜日
Share on Facebook

 
 

小学2年になり、4月から週に1回のマラソン教室に通い始めたI.Iちゃん。そのきっかけになったのが、小学1年生のときの校内マラソン大会だった。

「大会前にいっしょにコースを試走したんですが、スタミナ切れでべそをかいてしまったんです。本番も完走はしましたが、最後のほうだったんですよね。それがあって子どもながらに悔しいと思ったんでしょう」

 父のH.Iさんはそう語る。

 マラソン教室は長距離だけを教えるのではなく、短距離走の練習もする。そのおかげで、普段は家の中で遊ぶことが多いI.Iちゃんだったが、2年生になって6月の運動会ではリレーの選手に選ばれた。

 夏には短距離走の大会にも出場した。

 

 そして11月になり、教室全体で『第28回上田古戦場ハーフマラソン』に参加することになった。I.Iちゃんは『小学生女子3kmの部2年生』にエントリーした。

「練習では3kmも走ったことがなかったんです。親としては心配でしたが、娘は淡々としていましたね。完走できるつもりでいたようです」

 I.Iちゃんはマラソン教室で様々な経験を積み、それが自信になっていた。

 

 迎えた大会当日。

 

 父は仕事のために応援に行くことができなかった。気持ちとしてはまずは完走すること。欲をいえば、歩かず走り続けてゴールすることを願っていた。

 ところが結果はH.Iさんの予想をはるかに超えるものだった。

「10位入賞したんです。27人という参加人数でしたが、去年は泣きながら私と走っていた子がここまで成長するものかとビックリしましたね。レース後に感想を聞いてみたら、『もっと速く走れたと思う』と答えていました」

 それは娘なりの強がりだろうと思ったのだが、オールスポーツコミュニティのサイトでI.Iちゃんの写真を見たとき、あながち嘘じゃないと思った。

「芝生に入ってからのラストスパートのシーンが掲載されていました。前傾姿勢で地面をしっかり蹴り上げている写真。歯を食いしばって、スピードが出ている様子がはっきりと分かりましたね」

 つまり、スタミナ切れせずに、最後に加速することができたということだ。さらに、強気な発言の裏には、マラソン教室の中に自分よりも順位が上だった子がいて、その子に負けた悔しさもあったのだろうと、H.Iさんは分析をする。

 

父はラストスパートのこの写真を見ると、娘の必死さや息づかいが、まるで実際に見たことのように思い出されるそうだ。

 

 目標は今回の大会で自分より上位に入った同学年の仲間に追いつくことと、秋に行われる駅伝大会のメンバーに選抜されること。

 自分は“できる”ということを知ったI.Iちゃん。これからの成長が楽しみだ!

 

(文責:ライター金子塾 滝沢)

 

千倉の風を走りぬけて

2015年1月21日 水曜日
Share on Facebook

夏は海水浴やサーフィン、冬はフラワーパークなどでにぎわう千葉県南房総市千倉。スキーヤーでランナーの下田眞平(しんぺい)さんはこの地域で生まれ、大学へ進学するまでの18年間を過ごす。この地域は、「南房総市ロードレース千倉」が開催される場所。今年で、開催43回をむかえた。

「この地域は、今、過疎化に悩んでいます。そこで、少しでも地域貢献ができればと思い、昨年からこのレースに参加しはじめました。」母親がこの地域に一人で暮らしていることもあり、、藤沢市から帰省するきっかけにもなっているという。今は、神奈川県湘南地域の海岸にほど近い鵠沼に住む。

 

この大会のコースは、下田さんが中学時代に参加していた駅伝コースの一部でもある。当時、駅伝に参加していたのは陸上部からのメンバーだけではなく、野球部に所属していた下田さんを始め、バスケット部、水泳部など、各運動部からセンバツされた生徒達だった。

「1、3年の時はラスト10区、2年生の時はスタートを任されました。中学3年生の時、最終10区で区間新記録を出して、3位から2位に順位を押し上げたのですが、抜いた中学に私の母が教師として勤務していたために、しばらくはその話題で盛りあがったと聞いています。」

当時、区間新記録は出した下田さんだったが、「後からゴールした同じクラスの友人が、私よりさらに3秒早いタイムを出したのです!区間賞をのがしてしまったことも、今となってはなつかしい思い出となっています。」

昨日のことのように下田さんは語る。そして、そんな思いを馳せながら、このレースのハーフの部、下田さんは1時間 43分 28秒でゴールを切った。 

そんな体育会系だった下田さんだが、ある日健康診断で、「このままいけばメタボ症候群に突入しますよ」と言われてしまったのだ。今から2年前だった。社会人になってからは、スキーをする他にほとんど運動もしていなかった。これを機に再びマラソンの世界の扉を開ける。

「最初はダイエットが目的で始めたので、マイペースで目標をクリアしたら次に進もうと思って。しかし意外に早く目標をクリアしてしまったので、2012年に初めて青梅マラソンの10kmに挑戦し、翌年も同じく10kmに出場しました。」

スキーの大会でもそうなのだが、「本番に強い」と自他ともに認める下田さんは、目標のクリアも早い。

現在下田さんは、土日に自宅からほど近い江の島から鎌倉方面往復を走りこみ、また、今年の4月から、職場の近く、みなとみらいを夜、週2回走りこんでいる。下田さんは、日本最大の豪華客船クルーズを運営する企業に勤務している。「ランニングステーションに通っているうちに、ラン仲間ができてきました。こういう出会いって良いですね。」

昨年11月には、富士山マラソン(旧河口湖マラソン)に出場し、還暦で初フルマラソン、いきなりサブ4を達成した。

下田さんは、ランに打ち込むだけではなく、今まで通り、スキーにも打ち込み、ヨーロッパ年間スキー滑走日数200日も目指している。「これ、サラリーマンギネス記録をねらえるんじゃないかと思って。ガイドブックには載っていないヨーロッパ諸国でのスキーの楽しみ方について、私費出版するのが私の夢ですね。」今、ヨーロッパ滑走日数合計は196日。目標まで後4日。下田さんは千倉の風を走りぬけ、今も、様々な場所で走り続けている。

(文責:石渡 素子)

チームへの言葉は息子へのアドバイス

2015年1月14日 水曜日
Share on Facebook

 昨年秋にラグビークラブのコーチとなったT.Mさん。チームは幼児から中学生、大人の女性までいて、500~600人が所属している。

 T.Mさんは幼児たちを教えることになった。自身は現役社会人プレーヤーとして、40歳まで活躍し、2年前に引退した。コーチを始めるきっかけとなったのは、周辺のラグビースクールを候補に挙げ見学した際に現役時代のチームメートや高校時代の後輩がこのチームでコーチをしていたという縁だった。

しかし、教えるにあたり、すんなり受け入れたわけではなかった。

「幼児のカテゴリーには40人ぐらいの子どもたちがいるんですが、うちの息子も所属しているんです。私がコーチになると特別扱いできなくなります。息子のビデオを撮ることもできなくなってしまいます」

 それでもラグビーへの情熱がコーチ就任を決心させた。

「チームの子たちには、うまくなってほしいというより、ラグビーを好きになってほしいと思っています。私がいつも言っているのは、みんなでボールを動かしてみんなでトライを狙っていこうということです。そのために、ボールとボールを持っている人をいつも見ようと言っています」

 

 就任して間もなく、11月3日に『秋季東京都ミニラグビー交流会』が行われた。東京都だけでなく、隣県からもチームが集まり、1チームあたり2試合の交流試合をするという形式だった。

 1学年40人いるチームの当日の参加は20名あまり。個人のレベル関係なしに3つのチームに分類された。T.Mさんが担当するチームには偶然にも息子さんが入った。

「うちは1分け1敗という成績でした。息子はトライも獲ったし、良かったと思います。相手を抜いたところをフォトクリさんが撮影してくれましたが、印象深いシーンでした」

 息子さんのことになると淡々としてしまうT.Mさん。指導者としては仕方ないことだ。特別扱いできない――。しかし逆に言えば、チームに投げ掛ける言葉は、そのまま息子さんにも当てはまる。

 T.Mさんは、この年代において勝ち負けに一喜一憂するのはあまり意味のないことだと語る。

「半年生まれが違うだけで体の大きさがまったく変わりますからね。それが勝敗にも大きく左右します。幼児だからこそ、まずは楽しくプレーすること。そして挨拶や礼儀などの規律。そして考えてプレーすることやチームワークを大切にすることが重要だと、私は思っています」

 

 2015年になり、T.Mさんにとってはコーチとして本格的な一年を迎える。息子さんは4月から小学1年生に進学するが、T.Mさんも小学校低学年のコーチとして継続する。

「息子にはこれからも楽しくラグビーをやってもらいたいです。私も指導者としては新米なので、一生懸命頑張りたいと思います」

 

 教える側になってからの新たなラグビー人生。カテゴリーが一段上がる息子さんともども充実した一年を過ごしてほしい。

 

(文責:ライター金子塾 滝沢)